2013/04/02

『向日葵の教会と長い夏休み』 詠ルート 感想、じゃねえなこりゃ…

『向日葵の教会と長い夏休み』 詠ルートの感想、じゃなくてポエムと自分語りです。これはひどい。まだましな感想はこちら


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このルートの登場人物は三人。二人の語り部と、一人の読み手。

語り部の少女は、かつて「言葉」を持たなかった。同じ地面に立つ登場人物であるにも関わらず、聞くことはできても伝えることはできなかった。ただもどかしさを抱えて立っていた。

読み手の少女は、かつて「言葉」を持っていたが、同じ地面に立てなくなってしまった。登場人物でなくなった少女は、語り部がいなければ物語に触れることすらできはしない。彼女は物語を失ったのだ。

二人の少女が再会したとき、物語を失った少女が願ったのは、失われたはずの物語。登場人物になれなくても、おとぎ話を聞かせてほしいという我が侭。その願いを叶えるために語り部が生まれた。

二人の少女の関係は、読み手が消えて、語る意味が無くなるまで続いた。ただの我が侭で、自分の欲しい物語を語らせ続けた少女は最後にただ感謝する。

物語が終わる。 
幕が下りる。 
だから、■は言う。 
やさしく、そしてうれしそうに……。 
「……今までありがとう」 
「私の物語を作ってくれて……」 
「私が見る事が出来なかった世界を見せてくれて……」

ただ、彼女が読み手として語り部の少女に送った最上級の感謝の言葉は別にある。それは彼女が繰り返し繰り返し語った言葉。

「私が持っていくのは、おとぎ話だけでいいんだよ」

諦めではなく、自嘲でもなく、虚勢でもない。彼女がうれしそうに語る姿は、あまりにも俺の姿から遠く、美しい。

いつか、消える前に、俺はそこに辿り着けるのだろうか。


***


まあ、プレイした方はわかると思いますが、こんな風に読むのは正確じゃないです。ただ、プレイ途中はその後の展開を知らないので、詠のあの言葉に完全に読み手としての自分を重ねてしまって、こんなきもポエムを描いてしまい……反省しております……。すいません……。

自分のなかの理想の読み手、こうありたいもの姿が詠だとして、詠と自分との距離に勝手に打ちひしがれるといった感じですかね。

実際問題、もはや物語でしかというかキャラクターを借りないと感情がめったに動かなくなってる状態でして、例えばえろしーんとかでも主人公が興奮してないとダメなんですよね。状況説明とヒロインの喘ぎ声だけとかだと全く興奮できない。主人公が興奮しているその感情に同期しなけりゃ興奮することすらままならないという。オナニーしててもこれじゃ主人公に憑依して主人公を手コキしているようなもんです。嫌な話だ。

まあ昔からそんな感じだったので、今後もこのまま何かを確認するように物語を消費しつづけるんだろうなーとはわかりきっているし、別にそれに不満とかも特になかった「つもり」だったわけです。ところが、詠の「私が持っていくのは、おとぎ話だけでいいんだよ」っていう台詞を聞いたときに、俺はこんな風には言えないなぁと思ってしまった。俺が同じ言葉を語るときがあるとすれば、それは諦めの先にしかないんだと思う。それがすげえ悲しいなーと。まあそういう話です。